あきら君
思春期時期。rockとの出会い。最低な生活。
近隣にわたなべあきら君がいた。
Guitarを持っていて、音源も沢山持っていて
ギター弾くのが上手で、駅前の家で
その時好きだった人が駅に私に会いに来るのを来るのをあきらくんちで見てた気がする。今考えたら怖いわ。
その時に付き合っていた長井の彼。
なんだろうな。思春期に初めて付き合った彼だから、彼氏が出来た自分に酔っていたんだろねと感じる。
胸の高鳴りもせずに、なんとなく付き合ってしまった、初めての彼氏。最低だ。誠実でもなんでもない。
あきらくんちは駅前で角の家だった。彼を待っている間、昭君ちで、ギターの弾きかたを習って?いたのかな。記憶が薄れてるけど、
今思い出すのは
その当時の彼氏じゃなく、渡部昭君だった。
今でも好きな音楽を聞くだけでアドレナリンが出て夜はさっぱり寝れなくなり、
寝れなくなるけど
昭君ちでギターを聞いた夜や
自分でギターを弾いた日、
好きな曲のピアノを弾いた日は、
全く寝れなくなる。今でもそう。死ぬまでそう。
昭君ちで彼氏を待っている間、ギターを弾いてもらい、勝手にドキドキして勝手にアドレナリン出していたのは私だった。
子供だった私は気が付かなかったけれど、当時の彼より好きだったのかもしれない。
そして、あきら君も、hsp体質とゆうか、繊細な優しい人だったと思う。今もきっと、繊細なんじゃないかな。色んな感情や共感をする人なんだと思う。
初彼より思いで深いのだから、恋い焦がれていたに違いない、、、のか?
思い出し告白するなら、
【とっても大好きでした】
と大声で言いたかったな。
気持ちを上手に伝えられたら良かった。後悔しかない。
今はきっと、お互いに家庭を持っているだろうな。
そんなことが何回もある。
素直になって態度や表情、言葉に出来ていたら
今も思い出すことなんかないのに。
東京のガチ心霊スポット、心霊ホテル
約20年前の話。
新宿で飲み会をして終電で帰れなくなった時に激安ホテルで休んでから帰ろうと思い、当時ネットカフェもあまり数がなくて、
新宿二丁目付近の、カーテンで仕切れるタイプ、ベニヤ板で仕切れるタイプの部屋が一泊2500円程度でありました。
極貧のあたしはカーテンで仕切れるタイプの2500円のタイプ、四人部屋←廃墟病院やないかい💦💦
をもちのろん、選びました。お金ないから、確か、一泊2000円位。
ベッドは、病院タイプの頭をギャッチアップ出来そうで出来ない
昔のパイプ式、錆びありのベッド。
隣や他のベッドは空室🈳で
四人部屋の病院←ホテル、、、に1人
ああ、大島てる様の事故物件よりひどいわあと思いながら酔っぱらいぐっすりんこの俺。
今みたいに動画を撮れるなら撮りたかったわ‼️
くやちい
東京のガチ心霊スポット、心霊ホテル
約20年前の話。
新宿で飲み会をして終電で帰れなくなった時に激安ホテルで休んでから帰ろうと思い、当時ネットカフェもあまり数がなくて、
新宿二丁目付近の、カーテンで仕切れるタイプ、ベニヤ板で仕切れるタイプの部屋が一泊2500円程度でありました。
極貧のあたしはカーテンで仕切れるタイプの2500円のタイプ、四人部屋←廃墟病院やないかい💦💦
をもちのろん、選びました。お金ないから、確か、一泊2000円位。
ベッドは、病院タイプの頭をギャッチアップ出来そうで出来ない
昔のパイプ式、錆びありのベッド。
隣や他のベッドは空室🈳で
四人部屋の病院←ホテル、、、に1人
ああ、大島てる様の事故物件よりひどいわあと思いながら酔っぱらいぐっすりんこの俺。
今みたいに動画を撮れるなら撮りたかったわ‼️
くやちい
下北であえぎ声
ブルーハーツに飽き飽きしてきた頃、プロレスの大仁田厚が有刺鉄線デスマッチかなんかしてた頃、
ブルハも興業と一緒にライブしてた頃
本当に興味がなくなってしまった。
この感情って、恋愛に似てるよね。
分かる人には分かるよね。
興醒めする瞬間。
冷めても冷めても
下北沢にいる私。
常に刺激を求める私。
下北沢で飲んだくれて始発で帰ろうとした路地で
AVのハードコアみたいな撮影の
女性のあえぎ声が
大音量で聞こえてきて
電車の踏切音とあいまって
祭りか⁉️位のカオスなノイズコアと共に
誰かのゲロを踏むとゆう
最悪かつ、なんて充実した朝なんだと
キラキラ✴️した気持ちになった。二日酔いさえ
胸ときめき
映画の主人公になった気分。
カオスな雰囲気に酔いしれた中二病期。
甲本ヒロト編3
下北沢
書籍化記念! SUUMOタウン特別お題キャンペーン #住みたい街、住みたかった街
by リクルート住まいカンパニー追記・・・
1987年の野音について。もちろん見たさ。その時はつい最近野音で事故があったことは知らずに浮かれてた。会場について知ったさ。
自分の初ライブがラフィンだっただけにショックすぎて悲しくなった。その日のライブは最高だったんだと思う。自分は・・・とても悲しくなってしまったのだった。苦い思い出。
上京するうえで、住むところを決める際、当時ぞっこんだったブルーハーツのヒロトが下北に住んでいるといった情報がありもちろん下北沢を選ぶ。もはや学校の場所など考えていないあたりが子供すぎて笑う。
何の情報か分からないけど、風呂なしの共同便所で生活をしていたとの情報←どこ情報?(+_+)で、人生を狂わせた憧れの人と同じルーツを辿らねばと(完全にあほ)3畳一間のアパートで風呂なし共同便所の部屋を借りた。ひいいいいい
昭和の古い家の一室だった。
学業とアパートの往復は乗り換えもあってちと大変だったが下北沢は田舎者には温かい街だった気がする。
バイトも掛け持ちでしていた。一時期下北沢の南口にあるロフトという小さなライブハウスでバイトしたんだけど学生でバイト2つ掛け持ちがつらかった。というのも大学は落ちて専門学校に入ったから。不思議なのは自分が演奏の側に興味がなかったことだった。どちらかというと音の遊びをしたかった、ミキサーをいじりたかった。
専門学校は2年で終了でハード、しかも国家試験も控えていたので少しの間しか出来なかった。
田舎者だったので普通にテレビに出ているミュージシャンが飲みに来ることが多々あって1人でテンション高めでしたが、スタッフは普通に気にもせず仕事していて(当たり前だ)「これが都会の人なんだ」なんて思ったりした。
その時のオーナーが、(今も同じなのかは謎?)ブルㇵのヒロトとも仲がいいよ~と言っていて、ついに甲本さん(←え?)もご来店。何回か来ていたけれど、もう頭まっしろ。スタッフだから余計な話もできず、ひたすら普通にビールとかポップコーンとか持って行っていた。
その時のヒロト(呼び捨てでごめんなさい(;^_^A)はそれはもう有名になりすぎていてわたくし硬直・・・・・・
細く、シャープで、堀が深くて、外人さんみたいな、まるで宝石箱や~・・・
いやいや、典型的なバンドマン、みんなが憧れるバンドマンだった。
なのに、ものすごく自然体でライブとは違って物腰柔らかそうな明るい普通のおにいさんだったわ(´ー`*)ウンウン。ストリートスライダーズの土屋さんと居た気がする。もう遠い記憶なので違っているかも。
とにかく、とても魅力的な人でしたよ。感涙。
「この人がわたくしに、3畳一間に住まわせた根源の人」
お嬢学校だったので、だれも家に呼べなかったけど(トイレも風呂もないし3畳で窓もほぼないところだったので・・・)
銭湯にも行けたし何よりレコード屋が多かったし、服も安いし、商店街も温かかった。ただし、忙しすぎてライブに行くことが少なくなっていた。だんだんとしたいことが出来ない状況になってきていた。
そんなこんなで卒業を迎え、世の中を舐めたまんまで20歳に突入。立派なDHになったわけですが・・・・・(ちゃんと風呂付のところに引っ越した)
やりたくもない仕事、ちゃんと考えなかった将来、とりあえず東京に行く手段としての学校、、、、いい加減な自分、、、、、、、
当時の私は仕事が苦痛で、2年目で3か所ほど転々として
本当にやりたいこと、24時間考えるようになって、
ご飯もあまり食べなくなって
ライブも行かなくなって
仕事を休んだりすることが多くなって
食べていないから倒れたりすることもあって
目も見えなくなってきていて
無性に涙が出て・・・・・・・・
人と会いたくなくなり、信用する友人もいなく、でもさみしくて孤独で
恋愛も不器用でうまく付き合えず
「自分には全く価値がない」
と思うようになっていたのです。気づいたら本当にやばい状態になっていました。
続く。
甲本ヒロト編2
自給400円で、近所の喫茶店でバイトしたが、働けど働けどお金がたまらなかった。
それは自給350円だからだった。。。
それでも月に6000~1000円、しかもその中でLPを買っていたので足りないくらい。
中2から進学のために受験勉強をする同級生とは裏腹に
わたくしはバイトに明け暮れていた・・・・←え???(笑)
学力は落ちる一方、先生からの信用もない状態に。見かねた親が、おかしなことを言いだした。
当時1学年150人中、50~60番(中くらい?)に居た私に、
「5番以内に入れ、入ったら10万やるよ。」おやじ頭大丈夫か?と思いながら
どうしてもギターやアンプが欲しかったので
必死に教科書を開いて勉強した。どうしても欲しかったので本気で勉強した記憶がある。
1番にはなれなかったが(1番ってのは、いつも決まった子でした。)2番になった。自分でもびっくりなんだけど、それよりもエレキギターが欲しい。
父親に報告し、足りない分を出してもらった。といっても、10万じゃなかった。自分がバイトした分で足りない部分を補足してくれた感じ。
アンプとセット価格で当時6万円位。
5万円ほどためていたので、1万円出してもらったような、、、、、、。
現金を握りしめ、ミュー〇っく昭和へ。いいギターなんて知らないし見かけがタイプのセットを買って部屋にこもりっきりになるという
中学3年生活を送る。
ここまで綴ったら、特に良いこともない悪いこともない中学生活だったと確認する。
そんなんだったので、中くらいの偏差値の高校に行き、ライブハウスに通ったり家で友達とCDやレコード聴いたり、ギターやベースを弾きあったりしていた。
当時はバンドブームも重なり、ほぼ皆さまがギターやベース、ドラムを持っていてある程度弾けていた。学際でのコピーバンド出演者も沢山いた時代だった。皆様がライブに行く時代だった。
そのなかでも、ストーカー並みに県外までブルーハーツを追いかけていたわたくしがいたのだった。
だって、まんまとはまっちゃったんだもん。。。。
で、進学するときに
どうしても上京したくて、就職か進学を選択することになり
親に、「上京して、音響(PA)の仕事に就きたい」と相談したが拒否!"(-""-)"
そのときは反抗期で、責任とれない子供なのに、やたら偉そうな口を普段からしていて、
父親に馬乗りに(テイクダウンされ)グーパンチで顔面強打される。
MMA総合格闘技の試合後のように、顔面腫れる。元々神経過敏な方だったので、こたえました。
女なんだから、顔じゃなくてボディにしてほしかった( ;∀;)
親はどこかの大学に行ってほしかったらしいけど、そんな頭はない。だって、さぼってライブに行って、放課後は楽器で遊んでいるんだから行けるはずがない。
姉が通っていた大学の推薦入学を受けるも落ちてしまった(笑)
3か所くらい落ちて、滑り止めのDH専門学校へ~、東京だったらどこでもいい、そんな感じで上京できた。
今思うと、将来を真剣に考えることがなくって、したいことを定められずにいたんだなと思うところです。完全に世の中を舐めた18歳が出来上がっていたんだよね。
ここから、迷走して挫折し、心折れることが沢山待っているのだった。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。お先真っ暗ー!!!!!
続く